diario
せめて七転八起 9月21日
準備中の屋台がありました。
たこ焼きやリンゴ飴の屋台の派手な看板にかこまれて
一味違う雰囲気の一軒は、おそらく張り子のだるま細工の屋台でしょう。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と「七転八起」の文字。
煩悩も執着もない、清々しい境地。
つまづいてもあきらめずに立ち上がる。
廓然無聖の境地は、わたしにはあまりにも遠くて
想像して憧れることしかできませんが、
せめて七転八起は努力しなければ、と思うのでございます。
打たれ弱くてすぐにいじけるわたしにとっては
七転八起はとても大変ですけれど
色々と考えてみなければ。
だけど、なぜこの垂れ幕文字は
七転八起は左から、廓然無聖は右から書かれているのでしょうね?
廓然無聖に「のし」がついているのもなぜ?
達磨大師がいつも毛深く描かれているのは、インド人だからかなぁ
インドの人って言ったって色々だろうにな、
じゃぁブッダも毛深かったのか?
そういえばイエス様もヒゲモジャの絵が多いなぁ。
・・・などと考えていると、すっかり日常に戻っているのでした。
われながら、やれやれ。