diario
たとえ売られようとも 8月27日
骨董市にいくと目に留まるのは大工や指物の道具の店。
以前から使い古しの-骨董市なので古いのは当たり前だけど-
物差しや薬匙、小さな金槌を買ってきては使っています。
だけど刃物だけは・・・
いったい誰が使っていたのだろう。
どんな経緯で骨董市にたどり着いたのだろう。
前の持ち主は市場に並ぶ自分の道具を見て、どう思うだろう。
そんなことを考えていると
いかに立派なノミや彫刻刀が並ぼうとも、
それらの道具を売買することが好ましく思えませんでした。
刃物は手入れも特別必要ですし、多くの場合は木を切ってきたわけで、
それら木が持っていた命の断片と、道具の持ち主の「気」が
沁み込みすぎているような・・・ちょっとした怖さもあったのです。
先日行った骨董市で、家族が箱に納められた道具一揃いを買いました。
おそらく前の持ち主が使っていたであろう姿のままです。
ノミにカンナ、旋盤の道具。試作のような破片も一緒でした。
その道具を見ていたら、なんだかふと思いました。
きっとこの道具を手放さねばならなかった前の持ち主は
自分の道具が市場に並ぼうが二束三文で売られようが、
大切に使ってくれる人物、自分がどのように使ってきたのか
理解して尊重してくれる人物が引き継いでくれたら
それ以上のことはないのだろうな。
埃をかぶっていたり廃棄されてしまう道具の方が
きっと何倍もの数あるはずなのですから。
わたしが死ぬとき、メノウ棒と箔ナイフを
誰か引き続き使ってくれる人に渡すことができれば、
と思いました。